世界のペプシの歴史1898 - 2000
1898明治30年
- ペプシコーラ誕生。
米国ノースカロライナの薬剤師キャレブ・ブラッドハムが調合した消化不良の治療薬がペプシコーラのルーツ。
主にコーラナッツ、バニラビーンズ等を原料にしたもので、”Brad’s Drink”(ブラッドの飲み物)と呼ばれる飲料として薬局で製造、販売された。
後にコーラナッツと消化酵素のペプシンから「ペプシコーラ」と名付けられた。
1902明治34年
- ペプシコーラ・カンパニーを設立、ペプシコーラの本格的な販売を開始する。
フランチャイズ制の生産・販売システムの拡大によって、1906年までには全米に200のボトラー(製品を瓶に詰め、販売する会社)と契約する。
第一次世界大戦後、急激に生産コストが上昇したことから、キャレブ・ブラッドハムはビジネスを断念し、ペプシコーラの商標を売却する。
以後、約15年にわたりオーナーが度々代わる苦しい時代を迎える。
大恐慌の時代(1930年代)、ソフトドリンクのほとんどが1瓶(6オンス)5セントで売られるなか、ペプシコーラは12オンスを5セントで販売。
当時としては珍しいラジオ・コマーシャルを大々的に使用し、発売と同時に売り上げを大きく伸ばす。
コマーシャルソングも流行し、100万枚以上のレコード がジュークボックスに入れられる。
1948昭和23年
- 本社をニューヨークへ移転。
1950年代初め、社長のアルフレッド・スティールがしゃれたデザインのボトルを採用し、ペプシコーラを軽い、低カロリーのソフトドリンクと位置づけ、妻で女優のジョアン・クロフォードと精力的な宣伝活動を展開する。
1954昭和29年
- 海外部門を設立、本格的な世界展開を開始。
1958昭和33年
- スワールボトルを採用。
1959昭和34年
- 社長のドナルド・ケンドールがソビエトのフルシチョフ書記長にペプシコーラを試飲させる。
ペプシコーラはソビエト政府と販売契約を結んだ最初のアメリカ製品となる。
1963昭和38年
- ベビーブームの時代に生まれた世代を”ペプシ・ジェネレーション”と名付け、過去にしばられず、未来へ向かう若者を「ペプシの象徴」とする大々的なキャンペーンを開始。
1964昭和39年
- 低カロリーのコーラ飲料「ダイエットペプシ」発売。 「マウンテンデュー」発売。
1965昭和40年
- スナック会社のフリトレーを傘下に加え、現在のペプシコ社を設立。
1975昭和50年
- “ペプシ・チャレンジ” キャンペーン開始。
ブランド名を隠して行われたコカ・コーラとの味覚調査でペプシコーラが消費者から高い評価を得たことから、消費者がペプシコーラとコカ・コーラを試飲し、どちらが好きかを選ぶ様子を”ペプシ・チャレンジ”としてそのままコマーシャルとして放映し、大きな反響を呼ぶ。
1977昭和52年
- スーパーマーケット、コンビニエンスストアなど消費者が自らブランドを選択して購入できる市場において、初めてコカ・コーラを追い抜く。
ピザハットを傘下に加える。
1978昭和53年
- タコベルを傘下に加える。
1984昭和59年
- 社長のロジャー・エンリコは、マイケル・ジャクソンとCM契約を結び、独自のミュージック・キャンペーン、”Pepsi, The Choice of a New Generation”を開始。
以降ライオネル・リッチー、ティナ・ターナー、マドンナなどビッグアーティストを次々に起用する。 同時にコカ・コーラを引き合いに出しユーモアたっぷりに表現した挑戦広告を展開し、広告界に新風を吹き込む。
1986昭和61年
- UPを傘下に加える(米国を除く)。
ケンタッキー・フライドチキンを傘下に加え、世界最大のレストラン会社となる。
1991平成3年
- M.C.ハマー、グロリア、エステファンをミュージックキャンペーンに起用。
1992平成4年
- マイケル・ジャクソンと3度目の契約を結び、デンジャラス・ツアーのスポンサーとなる。
1994平成6年
- ベトナムへ本格的に進出。ペプシMAXを世界各国で発売。
1995平成7年
- 米国の国民的なイベント「スーパーボウル」のテレビ中継時における広告好感度ランキングでペプシコーラCM「インナーチューブ篇」が1位を獲得。2位と3位もペプシの広告で独占する。
1997平成9年
- レストラン部門を分離。
1998平成10年
- ペプシコーラ生誕100周年。
ブルーをベースにした世界統一のパッケージ「新ペプシコーラ」を発売。
1999平成11年
- 「コーラの美しさ(The Joy of Cola)」広告キャンペーンを開始。
ペプシコとサントリー株式会社がノースカロライナ及びニューヨークにおけるボトリングのネットワークをつなぐ合併会社を発足する契約を締結。